基地反対闘争に批判的見解も

「拝謁記」には、昭和天皇が独立回復後の日本の安全保障や米軍基地の問題に言及し、共産主義の脅威が高まる中で、国防をアメリカに頼る以上は、基地を提供することもやむを得ないという考えを示していたことが記されています。

目次

「現実を忘れた理想論ハ困る」

昭和28年5月25日の拝謁では、昭和天皇が「新聞で見た事だけだが」と前置きしたうえで、石川県内灘(うちなだ)の米軍基地反対闘争に触れ、「小笠原でも奄美大島でも米国ハ返さうと思つても 内灘でも浅間で貸さぬと(原文ママ) いはれれば返されず、米国の権力下ニおいて そこでやるといふ事になる。米国の力で国防をやる今日 どこか必要なれば我慢して提供し 小笠原等を米国が返すやうにせねばいかんと思ふのに困つた事だ」と述べたと記されています。

 
米軍射撃場(石川 内灘村 (昭和28(1953)年))

また、その1週間後の拝謁(昭和28年6月1日)では「平和をいふなら一葦帯水(いちいたいすい)の千島や樺太から 侵略の脅威となるものを先(ま)づ去つて貰ふ運動からして貰ひたい 現実を忘れた理想論ハ困る」と基地反対運動に批判的な見解を語ったと記されています。

これに対して田島長官が、理想論者は「千島の前ニ日本国土から 米軍を引いて貰ひたいを申すかと思ひます」と述べると、昭和天皇は「それニ対してハ 私ハ朝鮮を見たらすぐ分ると思ふといひたい 朝鮮の現状等を見れば 現実問題としてそれは大変なことだと思ふ」と述べたと記されています。

米軍基地「已むを得ぬ現状」

 
石川 内灘村(昭和28(1953)年)

内灘基地の反対闘争はその後も頻繁に話題にのぼっていて、昭和28年6月17日の拝謁では、昭和天皇が「日本の軍備がなければ米国が進駐してヽ 守つてくれるより仕方ハないのだ。内灘の問題などもその事思へば 已むを得ぬ現状である」と述べたと記されています。

さらに昭和天皇が「よく外交が弱いといふが 国際間の関係ハ まだ道理といふより利害ニ動かされる故 正当の事の主張とて通るとハ限らぬ 外交上正しく主張するに 軍備がものをいふ訳故、日本の軍備をやめた事は現実の状況としてハ 米軍二依る外(ほか)ない。米軍中 不都合を働くものは不都合故 これハ罰すればよい そういふ難点ハ難点で考へてもよろしいが その事の為ニ 根本的ニ反米とか 米軍が日本の準備なき内ニ 退去するやう仕向ける事ハいかんと思ふ。私ハむしろ 自国の防衛でない事ニ当る米軍ニハ 矢張り感謝し酬(むく)ゆる処なけれバならぬ位ニ思ふ」と語ったと記されていました。

誰かが犠牲になり 全体が賠償するべき

両陛下が千葉県下ご視察(昭和28(1953)年)

昭和28年11月24日の拝謁では、昭和天皇は「世の中の事ハ 全部正しいとか 全部正しくないといふ事ハまづないので 一部ハ真理をいふが 一部不完全ハ免れぬといふのが物の常」としたうえで、「基地の問題でも それぞれの立場上より論ずれば 一應尤(いちおうもっとも)と思ふ理由もあらうが 全体の為ニ之がいゝと分れば 一部の犠牲ハ已(や)むを得ぬと考へる事、その代りハ 一部の犠牲となる人ニハ 全体から補償するといふ事ニしなければ 国として存立して行く以上 やりやうない話であるのを、憲法の美しい文句ニ捕ハれて 何もせずに全体が駄目ニなれば 一部も駄目ニなつて了(しま)ふといふ事を考へなければと私ハ思ふ」と述べたと記されています。

そして、「一部一部 自分の利害の上から考へて 自分の利益権利といふ方に重きをおいて 全体の為ニする義務といふ考えがないから困ると思ふ。日本の国防といふ事を現状ニ即して考へて、日本としてなすべき事たるが分かれば 誰かがどこかで不利を忍び犠牲を払ハねばならぬ その犠牲ニハ 全体が親切ニ賠償するといふより仕方ないと私ハ思うがネー」と語ったと記されています。

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